隣の芝生の色

 先日は大久保混声の本拠地であったコーラススタジオとのお別れでした。今後生きていて、私にも数十年付き合う場所や人が出来るのだろうか。全く想像がつかないけど、そういうのは目指すのではなく気が付いたらそうなっているものなのだろう。振り返った時道ができていることに気が付くその感動を、私はこれからの人生何回、いつどこで経験するんだろう。ちなみにまだ無い。近いものはあるけど、多分これよりももっと、時間を重ねないとどうしようもない、そうすることでしか見えないものがあるんだろうなと思っている。

 

 今日が一番若い、は私にとって呪いです。

 

  触れられる、物体として在るそこに年月を積み上げる事に憧れがある。ここでこんなことがあったな。あんなことを頑張ったな。ここであの人と出会ったな。ここであの人とお別れしたな。そういう、場所への何かというのがあまりない人生。

 形に固執する訳ではないのだけれど。

 だって、学校というそれなりの年数通った施設が存在するはずなのに何故か綺麗に忘れている、思い出せない時間がある。私という人間の性質上、形や場所にこだわったところで大したことにはならないのだろうと想像する。結局。いつだって隣の芝生は青くて隣の人が頼んだ定食は美味しそう。

 

 今生きながら感じている達成感とか焦燥感なんていつだって移ろうし簡単に忘れる。気が付いたら日々は過ぎる。引っ越したら景色は忘れるし、学生時代あんなに苦しかった通学路も今はもうなんともないし、あんなに弾き込んだピアノの響きももう私のものじゃない。好きだったものを嫌いになり、いないと思っていた人が近くにいる。

 

 師匠の言葉を借りるなれば「あなたも1日は24時間、わたしも1日は24時間」。そりゃあそう、を認識し直す。

 誰の何を基準にして何を比較するか、そこに何を見出すかなんて究極誰にも計り知れないので、今わたしの中に蓄積しているこの思考だっていつか時間の中に消える自己満足。でもこうして書きながら、いいじゃん消えても、と思ったりもし始めている。矛盾と変化を愛せる器でありたい。

 明日急に指がもげても耳が消え去っても、私はきっと音楽の前に立っていると思う。たぶんね。

 前回のブログで書いた気がするけど、でも私はまだ「音楽」への向き合い方は定まってない。良くも悪くも、私の人生の全ての選択肢に関係してくることに疑いはないけど。

 

 うだうだ悩んでいる時間をこうしてインターネットに流す、FBとかTwitterに書いた文の更に細かいものを、HPのブログという墓場に置く。自分の手で少しづつ、少しづつ作っていくお墓。私は身の回りのあらゆるものを「創作物」と捉え、「装飾できるもの」だと思っている。