人を概念として捉えてしまうまでの時間とか、の話

 例えば「バッハ」とか「ショパン」とかいう名前を聞いて、「1750年に没したドイツの作曲家で」とか「ピアノの詩人と言われるポーランドの作曲家で」というのはパッと浮かぶかもしれないけれど、その人の好きな食べ物とか、決まった生活習慣とか、お気に入りの散歩道を知っていたり、それを景色として想像・想起できるだろうか。実在した(はず)のその人を、今あなたの側にいるあの人のように、情報ではなく血肉の在る人間として想像できるだろうか。「ショパン」「バッハ」という概念として捉えていないだろうか。そしてそうだとしたら、自分とどのくらい離れていたら人は概念になるんだろうか。

 ちなみにショパンとバッハを例にしたことにはなんの意味もない。

 そして私自身、この問題?疑問?に特に答えは出せていない。だって、あったことがある人物でさえ、概念というか、自分とは全く違う存在であるかのように考えてしまう時がまだあるから。

 

 合唱関係の仕事をすることが増えて、存命の作曲家の曲を演奏することや新曲の誕生に立ち会う瞬間はピアノソロだけを突き詰めていた時期に比べて格段に増えた。作曲家その人に物理的に会うことが可能であり、むしろ稽古中に立ち会ってもらうことをひとつ当然といえば当然のように行える環境。演奏者にとっても作曲家にとっても有意義な機会であることは間違いない。聴いた後で作曲家が楽譜を修正したり、演奏の中で奏者の中に生じた疑問を作曲家に解説してもらったりという時間は、資料や楽譜には書き残せないものを含んでいることも疑いようのない事実だと感じている。

 いわゆる「書き癖」のようなものは誰にでもあって、もう亡くなっている(それこそロマン派とか、そういった区分にあてはめられる時代の)人々は、前期・中期・後期と作風が分かれていて…なんていう分析がなされていたりする。存命の人に対してそのラインを明確に引くことは当然できない。が、この人はいつもこういう書き方をする時にはこういうことを言うよなあとか、この人がこのフレーズを演奏するときはこういう音が鳴るよなあみたいなことが、我々には知識として、または経験として蓄積されている。作風どうこうだけでなく、人となりもそうだ。楽譜に記譜されているだけのことが情報じゃない。

 実際「この人がこんな音をかく訳が無い」と疑問に思ったところから本当に誤植が見つかったり、「移調した時の事故に違いない、あの人なら読み落とすかもしれない」みたいな(まあ失礼な)ところから本人に聞いたら笑って訂正されたとか、そんな話は山ほどあるのだ。私も作曲を齧っていた身なのでよくわかる。恩師伊東ゆかり先生には本当にご迷惑おかけしました。適当に書いたmpに対して真剣に悩んでいる奏者の方を見て、そこまでの強いこだわりでは…ないんです…!という申し訳ないやら恥ずかしいやら情けないやら、という思いをしたこともあるし、自分で弾いていて提出した後の楽譜を修正したい気持ちになることもザラにあった。

 あとはその人自身強く思い入れのある楽器や編成、もしくは演奏者としての技術が卓越した分野に関して、「こういうことが起こりうるから先回りして書いておこう」みたいなことも多くあるように思う。悪い意味でなく、「どうせこういう時はこうなりがちなんだから」みたいなものが記譜されている場合。記載されている記号を直訳したそのままの意味で全てを愚直に表現したからといって、完璧な理解とは程遠い。

 あとは「今回この人に演奏してもらうならこういう改変を加えるのも良いですよね」みたいなことも珍しくはなくて、それがもしかしたら数年、数十年、数百年の時を経て「実感」という生身の感覚から離れた結果、「絶対」という呪縛は時に奏者の首を(もしかしたら自ら)絞めている。共通項を見出すのと同じくらい、違いを見出すことも忘れてはいけない。

 

 実際見たことがある・会ったことがある人に対して、書く文章が面白いとか、私服がおしゃれなだとか、頑迷だとか柔和な人だとか、この楽器をこれくらい弾ける人だとか、何か「作曲する」以外のことをイメージしようと思えばいくらでも上げられるだろう。でもどうだろう、音ばかり追って、何かを知った気になってはいないだろうか。

 

 

 「○回失恋しないとこの曲は弾けない」みたいな半ばジョークのように言われる曲、子供の頃はかなり真面目に信じていたけど、生きていて今のところ「経験しても弾けないものは弾けない」という結論に行き着いている。Aさんの人生はAさんのものでしかなくて、私の人生は私のものでしかない。同様に、例えば痛みを感じるポイントとか、深さとか、タイミングとか、幸福だと思う物事も違う。わからんものはわからん。私の心は私だけのものだし、だからこそ「演じる」とか「憑依する/される」とかいうことがしばしば話題に上ったりするのだ。(ただ「恋愛」というのは特別に幅広く、言葉を選ばずにいうなら大変便利なものだ。あそこまで他人に影響される人生の経験というのも少ないだろう。恋をしたら皆詩人になるというのも頷ける部分があるし。)

 皆が皆20歳になったことがあるからといって、誰かの20歳を経験することはできない。

 

 奏者と同じように作曲家も人間なので当然のように日々変遷する。生誕から死去までが記されている本が出版されているような過去の人間の話だったら、○○歳の時に○○をして…を見通しておおよその人生を把握できるけれど、何せ私たち、自分自身も今を生きているので確実な何かなんて何ひとつない。同じ変遷の時空なり次元なりを共有し、もしかしたらたまに失望したり、希望に胸を高鳴らせながら生きる。明日死ぬかもしれなければ宝くじが当たって人が変わったようにセレブリティな生活を送り始めるかもしれないし、5秒後に大災害が起こって全てを失って音楽どころではなくなるしれないし、数十年来の友人と縁が切れて鬱になるかもしれないし運命の出会いをして幸せの絶頂に至るかもしれない。全部ifだけど、絶対否定はできないものばかり。 

 「○○歳の時、怪我により◯◯を断念。」こんなに短く書き表されることだって、自分の人生だったらどうだろう。「○○大学卒業。」だって、どれだけの中身があることか。ラブレターを丁寧に研究されて、複製なんかもされちゃったりして、この作品にこんな影響を及ぼしている、とか大真面目に皆んなが議論しているこれを、歴史として見たら至極当然のことかもしれないけれど身近なもので考えたら私だったら耐えられない。「読んだら燃やしてね」と送り主が書いたにも関わらず受取人が綺麗に保存なんてしておくものだから、死後にどうのこうのされて晒されたり。

 自分にとって本当に大きな出来事を一言で片付けられるのって、場合によっては憤りを感じるかもしれない。そう表すしかないとしても。でもそれが人間的な側面なんじゃないか?一表現者の、人間としての部分を、見出したり見出さなかったりして、私は今日も楽譜を開く。

 

 なんだか壮大な話みたいだけど全然そんなことはない。当たり前のことを長々書いている。

 最近SNSに全然顔を出さないんですが、ブログは本当の意味で本物の独り言を書けるので気が楽です。結構更新すると思うので、お時間あったら覗きにきてください。