つづづづづづる

 変わっていくことが必ずしもマイナスではなく、しかしプラスであるとも限らないということを理解するのに生まれてから20年以上かかりました。

 綴りたいことを自由に綴るには責任が伴うのだということを、日々改めて感じています。

 

 私は中学生くらいから七夕の短冊には「世界征服」と書き、社会人になって以降「将来の夢は?」と聞かれたら「家にマッサージチェアを置くこと」と答えています。別にウケを狙っているとかではなく、本気でそう思ってそう書いていたのだけれど、大人になった今こそ具体的な夢(というよりかは目標と言ったほうがいいのかな)を持つべきでは?と思い始めた今日この頃、すっかり秋です。

 大人になりたいと願わなくなったので、多分もう私は子供じゃないです。でも短冊には毎年「世界征服」って書く。

 自分の音楽教室を開きたい。海外に行きたい。自団体で演奏会を開きたい。ソロのリサイタルを開きたい。CDを出したい。プライベートホールを建てたい。学生向けのイベントをたくさん企画したい。あの人とこんなことをしたい、ここであれをやりたい…。

 思うばかりはタダで、妄想する分にもタダ。

 善は急げというけれど、急いだ結果善が善でなくなってしまうのではないか、未来の保証は誰のものも誰にもできない。

 

 100%自分の思う通りにいく物事って例えば何があるでしょう。100%、信じていた通りであることがどれくらいあるでしょう。やや潔癖症気質の私はコロナが流行り始め、店頭にアルコール容器が設置されるようになって本当に喜んでいるタイプの人間なのですが、あれをプッシュするたびに「これが劇薬とか毒物の類だったらどうしよう」と想像する程度には空想の世界に生きています。信じる信じないとかの話ではないのかもしれないけれど。過敏であることは時に過度なストレスを呼ぶし、でも鮮明に、迅速に何かを捉えることもできる。私は私という器の操作がこの世で一番難しいものだと思っています。

 

 「一般の人が陰謀論史に免疫がない、知識がない、安易に飛び付いちゃう、信じちゃう、吹聴しちゃうのは、ムーを読んでないから」という、知る人ぞ知る月刊ムーの三上編集長のインタビュー模様をTwitterで見かけて笑いました。

 いっそ陰謀とか、未知のもののせいだとか、理解や文明が及ばないという意味で諦めのつく何かだったらいいんですけど、大抵そうじゃない。生きるのは難しい。好きは変わっていいけど、変わる前のそれがなくては変わることもできない。

 

 人前で話すこと、好きだけど得意じゃないし上手くもないなと思っています。

 多分どちらかというとこうして文字を書くほうが好き。楽。書き直せるし、時間かかっても誰も待たせたりしなくて済むし。基本が根暗なのでしょう。克服したと思ったんだけど。

 「○○について書かなくちゃ…」とか時系列にこだわった結果ブログの更新が滞りに滞ったので、これからはあまり気にせず、書きたい物を書けるときに書きます。

 公式HPは私のネット上の墓場になる予定なので、ここになるべくいろんな「すべて」を集約させたい。

 

 何欲しい?に対する答え、ゲーム機!とかお人形!だったのが、時間とか休みとかお金とかそういうものになっていくの、なんかグッときますよね。そんなことない?