カニササレアヤコさんと共演しました。#うすきあおい

 昨年initium ; auditorium企画で行われた「わからないフェス」で初めてお会いしたカニササレアヤコさん。「あの時の薄木さんのピアノに一聴き惚れして」と今回演奏のお声がけを頂いた時の私の高揚といったら。

 実は北嶋愛季さんともわからないフェスでご挨拶したのがきっかけで共演しているので、わからないフェスは私の音楽人生にとってあまりに重要な日。

 ちなみにその時の作品はこちらから購入できますので是非。メッセージと共に投げ銭をいただけると、更に嬉しいです。よろしくお願いします。(そろそろ新作出したいな…)

 

 雅楽の可能性と面白さをあんなに楽しく追求している人、随分前から一方的に存じてはいたのだけれど、まさかご一緒できるなんて。しかも提案してくださったプログラムが最高で、テンションが上がる理由しか無かった。

 

 《プログラム》

平調 調子 (笙ソロ)

スーパーマリオブラザーズ雅メドレー (笙・ピアノデュオ)

なんの音でしょうかクイズ

G線上のアリア (笙ソロ)

『ベルガマスク組曲』より「月の光」 (笙・ピアノデュオ)

ブエノスアイレスの夏 (笙・ピアノデュオ)

 

 最高ですね。そして、この40分くらいのボリュームがちょうどいい。

 

 脱線に見せかけて関係ある話をするんですが。

 私はSNSでコンテンツを定期的に上げる、みたいなことが実はそんなに得意ではなくて。…ツイートは別ですよ、あれは違う。ほら、例えばちょっとした演奏動画とか。写真とか。なんでって、めんどくさがりだし、自分の容姿も喋り方も好きじゃないから(だからこそ見え方・魅せ方、メイクとか服飾に興味を持てたんだけど)。あと、私は誰かをキラキラさせるのが好きで、自分が目立ってるのとか主役になってる何かっていうのがなんだか結構恥ずかしいんですね。ここら辺は本当に音楽家としての自分と人間としての自分の著しい乖離なんだけど。ちなみにブログでこうやって書き綴るのが好きなのは、究極の自己完結ができるからです。全文読んでる人なんてそうそういないだろうし。

 

 ここではSNS上の話に限るけど、「セルフプロディース」が本当うまい人っていうのは一定数いて、アヤコさんなんかは天才中の天才だと思っている。ファンです。人を笑わせたり、楽しませることって誰にでもできるものではないでしょう。芸人だから、舞台人だから、役者だから…みたいな話に収束するのかもしれないけど、でもその種類って結構細分化できたりしない?私はそういう風に人のことを知っていくのが大好きです。もっと見たいな、もっと知りたいなと思われることが、どれだけのものか。そういう空気を持つアヤコさんとご一緒できて、本当に楽しかった。私が「ハモンド入れてみたいんですけど」っていう強引な提案も快く受け入れてくださって。一緒に演奏する中で生まれるたくさんの「楽しい」を共有できることが嬉しかった。

 

 今回ご一緒して、アヤコさんから「雅楽をもっといろんな人に聴いてもらいたい」という言葉を何度か聞いた。それってたぶん多くの分野の音楽(ひょっとしたら音楽以外でも)で課題になっているというか、危機感としてもちあわせているもの。それが当たり前になっている可能性も含めて、真面目に向き合わなければならない課題だろうと思っている。特に職業音楽家なんてものをやっている人間は避けてはいけないと思う。自己満足で終われるならそれはそれでいい、それも一つの活動の形ではあるけど。でも個人的には職業音楽家を名乗るのであればその辺も見えててほしいなと思っています。現実はどうあれ。私個人の理想ね。

 その点、アヤコさんの本当にすごいところって、マジでその垣根をぶっ壊しにいっているところ。文字上ではなんとでもなるんだよ、そうじゃなくて実際の行動。「雅楽よくわかんないけど面白い」っていろんな人に言わせてるの、カッコ良すぎるでしょ。本当にすごい。素敵。

 

 ブログって文字数制限なくダラダラかけちゃうから危ないですね。以前はよくFBで超絶長文を書いては「お前これ深夜のポエムかよ」なんて先輩にいじられたりしたものですが、そこからなんの進歩もしていない。変化もしていない。あと、使う言葉の癖が、キーボードの上を移動する自分指でまざまざと自覚させられるの、本当に屈辱的です。ドSはドMを内包していろよ。

 笙は演奏前にぽっかぽかにあたためないといけないこと、皆さんは知ってましたか?私は大学の日本音楽史の講義で知りました。多分5年くらい前。でも「あたためる」という、字での情報しかなかった。決して、生きた知識ではなかった。

 そういうこと、たくさんあるよね。

 文字だけの知識をもっと実感として体に入れていきたい。音楽って「ここだけ」とかで完結するもんじゃ絶対無いし、じゃあ無関係としてどいう無関係なの?みたいなことに興味を持つことを、生きるという半ば強制的なイベントの中でどれくらい経験できるか。学生じゃなくなった途端に学びたくなるあのあれ、無視して生きていきたくはないですよね。今なんですけど。

 

 人との出会いの中で知識が生きたものになる瞬間って、本当に幸せ。人と出会うっていうことは、その人の生きてきた道、見てきたものの延長上に遭うってことだから。誰かに出会う、って、誰かが私に出会うってこと。楽しいものでありたいよな。愉快な人間であれ。

 

 

 ジャンルという定義分けは便利なもので、一種の縛りと思い込みを助長しうるものだから注意していかなきゃいけない。

 「木を木と呼ばないと 私は木すら書けない 木を木と呼んでしまうと 私は木しか書けない(谷川俊太郎)」みたいなさ。あれ、好きです。

 

 クラシックの演奏会の敷居がなんだかんだみたいな話は定期的にあがる印象があるけど、あれは音楽家の中でしか議論されてない気がする。大抵の場合、人は議論する間も無く去っていってしまう。

 あと、下げすぎも良くないとは思ってます、いろんなものの。

 

 私には何ができるのかしらとか壮大なことを考えることはできるけど、多分それは時間と心の体力の無駄な消費につながるのでやめます。振り返ったら後ろに道ができていることを、いつかの未来実感できますように。

 

 今回の会場である小黒恵子童謡記念館。本当に素敵だし、棚をチラ見しただけでも凄く気になる資料がたくさんあったので、後日個人的に訪れたいと思っています。